「頼もー!」
古来の道場破りの型に則って、川瀬は演劇部の部室の戸を叩いた。
つまりは、その筋では新参の自分たちが文化祭で一番の話題を掻っ攫ってやるぞという気合なのかもしれない。
「よろしくどうも」
後から続く航平はなんとも慎ましやかに、そろそろと入った。躊躇など微塵も感じさせない川瀬とは好対照である。
「やあ、待ってたよ!」
彼らを迎え入れたのは、演劇部の部長、紺屋孝則(こんや たかのり)だった。さわやかな好青年といった雰囲気で、それに拍車をかけるように滑らかでキレのよい綺麗な日本語を話す人だ。
完璧主義者の山岸女史がやるなら徹底的にをモットーに、演技指導を彼に依頼していたのだった。
「えっと、君が………」
紺屋は川瀬を手の平で差し示して言った。指で指さないあたり、ものすごく丁寧な人なんだなと紺屋のことを好意的に考えていた航平であるが、その彼の言葉でショックを受けることになる。
「君がロミオの川瀬君で、そして後ろの君がジュリエットの鈴木君で間違いないのかな?」
穏やかな口調だったが、航平に与えた衝撃は生半可なものではなかった。
(なんで、名乗ってもいないのにわかるんだよ!!)
航平はがっくしと肩を落とした。
ずばり、それもこれもガタイなのだろう。平均身長を越えた川瀬がジュリエットのはずないもんな。そりゃ、ちっこい俺がジュリエットだって誰でも思うよな。
男なら、かなりの屈辱である。本気で体を鍛えようと、航平は密かに決意していた。
「それ見ろ」とあざ笑うかと思った川瀬であったが、うんともすんとも反応しなかった。
困ったのは紺屋である。彼らが同級生でクラスメイトでなんとなく付き合いのある山岸女史の頼んできたロミオ役の川瀬彰一とジュリエット役の鈴木航平であることは確かだろうが、自分はなにかおかしなことを言っただろうか、と考えている様子である。人物確認以来の、この無言は一体なんなんだろう………??
紺屋としては、何気ない一言に意味は見出せないようだ。自分にそんな悩みがない分、屈託がない。航平の消沈のわけなど知る由もない。
「えーと、なんだか元気なさそうだけど………今日は止めとく?」
おずおずと提案する。
それに首を振ったのは川瀬である。どことなく挑戦的な視線で紺屋を見る。
「いーえ。とんでもありません。わざわざお時間取らせて申し訳ありませんが。………な、航平?」
ずーんと暗雲背負っている航平を引き立てて、その頭を上から押し下げた。合わせるように自分も頭を下げる。
「んじゃ、よろしくということで」
+ + + + + + + + + + + + + +
山岸女史の作った台本とは、大きく2つに場面別けできるものだった。
まず最初の5分は、山岸女史の独壇場。
ロミオとジュリエットが書かれた時代の説明・作者シェイクスピアの紹介・そしてロミオとジュリエットのあらましを、山岸女史が御ん自らホワイトボードを使ってご教授してくださるという、ありがたい時間。
生徒たちがそれに耐え切ってからは、いわゆる余興の時間。では、ロミオとジュリエットの世界を味わってくださいという寸法で、それこそが山岸女史のねらいである。どうだ、歴史研究会って面白そうだろと生徒たちに意識付けさせる腹。
そしてそのスケープゴートが航平と川瀬なのだ。
台本のまず第一声から、ロミオの叫びである。
―――「こんなにお慕い申し上げているのに、あなたは死んでしまった!」そしてロミオ、がばっとジュリエットに抱きつく。
これが開幕の台詞と動作なのだから、かなり航平が抵抗を示すのも頷ける。
さらに話が展開していくと、こんなシーンまである。
―――「愛しています、ロミオ。あなたのいない世界で生きていくことは出来ない」ジュリエット、ロミオの額に口付ける(絶対、見えるようにしろよ!! 角度に注意!)
無論、最後のカッコ書きは山岸女史の注釈である。ご丁寧にも赤ペンで書いてある。本番でやらなかったらまじで殺されるかもしれない。
そのほかにも、まだ生きているロミオが上向いて仮死状態になっているジュリエットの唇にキス(寸止めでよいとの注釈あり)したりだの、死んだロミオの手に短剣を掴ませて、それを自分の首に刺して死ぬシーンでは幕が下がるまでロミオに抱き付いとけとの指示があるし、なんというか、5分間の責め苦の連続なのだ。
そして今現在、二人はそのファーストステップを踏んでいるところだった。
「お前さ、もうちょっとリラックスしてくんない?」
眼前に―――まさしく字のごとく、航平の目のすぐ上に川瀬の顔はあった。かなりのしかめっ面。全身硬直状態にある航平に、なんとも”やりにくさ”を感じている様子だ。
「だだだだだって………」
ちょっと近すぎないかと思うのだ。川瀬の呼吸さえ、航平の頬をよぎる密着ぶり。
「それにさ、お前一応仮死状態ってシチュエーションだろ? んな、体に力入りまくった死体なんてどこにあるよ?」
ほれほれと引き攣った航平の頬を指で突付く。
場面としては、山岸女史の台本の最大の見せ場―――いわゆる、最高の話題を全校生徒に提供するであろう、寸止めキスの予行であった。
とりあえず君たちの演技力を見たい、という紺屋の要望に答えて、彼が適当にめくった台本のページを紺屋の見ている前で始めさせられた二人であった。それが見事に”その”場面と言うところが航平にとっては悲惨であるが………紺屋としても、山岸に依頼されてから数日経っているので、よもやこの二人が”初めて”とは考えてもいない様子だった。普段、演劇部の監督も兼ねている彼は、うってかわった厳しい視線で彼ら二人の絡みを見つめていた。
(まずい、まずいぞ〜〜〜)
航平は内心、荒れ狂う嵐の中にいた。
まったく、正常な思考は出来そうになかった。なんせ、こんなに間近に人と顔を見合わせているのは初めてだったのだ。事故で顔と顔が顔面衝突しない限り、こんなに………鼻が擦れ合うぐらい人と接近することなんて………それって、キスするぐらいしかないじゃないかああああぁぁ!!
心臓がばくばくしていた。
今まで一度たりとも川瀬を意識した事なんてなかったが………意識していたほうがある意味怖いが………こいつって、けっこう男らしー顔してんだよな。すごい整っているってワケじゃないんだけど。今だって、航平が力ずくで押し倒されているわけではないのにもかかわらず、その迫力で床に縫い付けられているように感じさせられていた。立ち上がろうとしても、川瀬のこの胸を押しのける事なんて航平の貧弱な筋力ではムリそうだ。なにより、実はこの川瀬の体勢って片腕で上半身全てを支えていて………腕立て伏せを肘を曲げることなくずっと耐えているのと似たようなモンなんだよな。かなりキツイ。航平なら、1分と持たずに肘が笑って、そのまま崩れるだろう。
「あのさ………」
航平は川瀬の腕の下で、じぃーっと川瀬を見つめていた。その眼差しを川瀬が軽く逸らす。
「ちょっと、目を瞑っていてほしいんだけど」
「え」
「そんなに見られたら、いくら俺でもやり辛い」
「は!?」
言うのと、航平の横に添えられていた手が動き、航平の視界を塞ぐのはほぼ同時だった。暗闇された視界の中、川瀬の声だけが耳に響いた。
「―――ジュリエット、永遠の愛をあなたに誓いましょう。愛しております」
台詞っぽい言いまわし。そりゃそうだ。山岸女史の台本の通り。そしてこの後、川瀬が俺に寸止めキスをやらかすんだったよなあ………
(って!!)
航平は閉ざされた視界を目いっぱい見開いた。無論、暗闇の中であるが、その暗闇が濃くなっていく―――明らかに何者かが………ってこの場合、川瀬しかいないわけだが………ずんずんと航平の顔に近づいてくる気配。頬をくすぐるこの感触は、たぶん川瀬の髪の毛だ。
(うあっ………)
その瞬間、唇に熱が降りてきた。
あやふやな感触。温もりだけが伝わってきて、確かな接触の感覚はなかった。
しかし、ただそれだけでも、航平は心臓が制御不能なぐらい高鳴ってしまっていた。ドキドキどころではない。いちいち脈拍がドッキンドッキン胸を押し上げてる感じ。苦しいぐらいだ。
(止まれ〜、俺の心臓止まれ〜!!)
このまま1秒でもいたら、爆発して死ぬ。そう思ったとき、ようやく川瀬の気配が遠退いた。
視界を覆う川瀬の手がどけられて、いきなり川瀬と目があってしまう。なんか、離すことが出来ないぐらい絡み合ってしまう。こういう不意打ちは、卑怯じゃないかと思う。
川瀬は真っ赤になった航平に、自身も少しだけ視線を泳がせて言った。
「………一応、言っておくけど、ギリギリで止めたからな」
「わ、わかってるよ、んなこと!! 早くどけろって!!」
うまく返すことすら出来ずに、航平は無理やりに川瀬の腕の下から逃れようとする。このままでは、この心臓のめちゃくちゃぶりがばれてしまう。コブシを握って川瀬の胸を叩いた。川瀬は軽くそれをかわして、航平の横側に崩れ落ちた。二人して仰向けで天井に視線を逃がしていた。思わず知らず、同時にため息をつく。
そこに差し込まれたのは、紺屋の冷静この上ない声だった。
「川瀬君、どこをどう解釈したら、死んでしまった愛しい恋人の目を手で覆ってキスするんだ? あれじゃ、雰囲気がまるでないだろう?そうじゃなくて、この場合―――」
紺屋は死角から航平に近づいてきて、気がついたら一瞬で航平は紺屋の腕の下に収まっていた。
「ジュリエット、永遠の愛をあなたに誓いましょう。愛しております」
先ほどの川瀬の台詞とまったく同じ言い回し。しかし、川瀬に比べるとずっとしんなりとムードを湛えた声。うまいな、と航平は思った。思っていたら、視界ですぅーと紺屋の顔が大きくなっていって、いつのまにかその目許ぐらいしか視界に収まりきらなくなって―――これって、さっきの繰り返し!? とかパニクっているうちに紺屋の顔は視界の半分ほどまで引いていた。
(えっ………も、終わり?)
なんか、一瞬で終わってしまったなという感じ。あれよあれよという間にワンシーン雰囲気作ってる。航平がもう少しまともに演技できていたら、これはこれでなかなかイイ感じのラブシーンいっちょ上がりである。少なくとも、先ほどの川瀬と航平の演技では足元にも及ばない。航平としては、もっとずっと緊張したのは川瀬との時だったのだが。
(って、俺、いま全然リラックスできてるし………)
もっと、川瀬との場合はお互いに緊張していて………心臓はドキドキうるさいし………意識のし過ぎだったのかな?
(もっと軽く、紺屋先輩みたく演じる感じじゃないと………ん?………あ、れ?)
何か、何かものすごくおかしな感覚が航平の中にあった。
(俺、なんでこんな落ち着いてんだ?)
ついさっきまで、あんなに心臓がめちゃくちゃに暴れていたのに………ついさっき………川瀬とシタ後までは………。
ちらっと川瀬を見たら、川瀬は穴があくぐらい航平を見つめていた。それでまたドキドキが再発してしまう。
(な、なんだ??)
しかし、その感覚をはっきりと自覚する前に、紺屋のあいからずの冷静な声が二人の視線を彼に向けさせた。
「川瀬君はいまみたいな感じで、情緒をもっと前面に出していこうね。あと、鈴木君は、この時点では死んでる役だから目を瞑っておくこと。………それから、二人ともラブシーン慣れするためにこれから毎日このシーンを最低20回は練習しようね」
地獄のようなことを、なんともさわやかに言う人だ。
それよりもなによりも、寸止めを毎日20回なんて………
(俺、心臓口から吐き飛ばして死ぬかも………)
+ + + + + + + + + + + + + +
それからの日々は、航平は川瀬から毎日100回以上愛を囁かれるという苦行を耐え、自らも燃えるような(胸を刺すぐらいの愛情なんだから叫びまくりに)愛を訴えるという難行をこなすというもの。場所は演劇部内の一隅を借りたり、「古今東西歴史研究会」の部室であったり、紺屋はいたりいなかったり、山岸女史が口を出したりと、決して息を休めるひまはない。気がついたら、三日後にはもう文化祭の本番という頃になっていた。「古今東西歴史研究会」がナニやらやらかすというのは、すでに全校生徒知らぬものなどいない話題になっていた。航平も、今更逃げられないことはよっくわかっている。あとはただひたすら、その日まで心臓を吐き出さないように注意することと、その日に練習どおりぱっぱと本番を迎えられるのを祈るばかりであった。
―――ただ、次第に航平の中で頭をもたげてくる、あの感覚。
これだけ人に好きとか愛しているとか叫ぶことってこれからもないんじゃないのかって言うぐらい、川瀬に言い続けた。人前ってことなんか関係なく、「愛しております」「愛しいあなた」「貴方がいなくては私は生きていられない」、だ。
(なんか、ワケわかんない)
言いまくりすぎて、現実とごっちゃになっているのだ。
絶対そうだ。
それ以外に考えられない。
(………この俺が、コイツにどきどきしているわけじゃないんだ)
航平は1歩だけ離れた位置で、ソファーで眠ってしまっている川瀬を睨みつづけた。
放課後、誰より早く部室に行ったつもりが、川瀬がこうして眠っていたのである。まったくこの川瀬という人間は、きちんと授業に出席しているのかと襟元ぶんぶん振りまわして尋ねてみたいものだ。
いち早く航平よりも状況を受け入れた川瀬は、紺屋バリの冷静さで――――情熱的にロミオを演じられるようになっていた。いつまでたってもドキドキのあまり目を見開いたり、余計な叫び声を上げる航平とは全然違う。
なのに、ロミオの時の口調はまさしくとろけるようで、航平をぐちゃぐちゃにするのだ。
でもそれは、演技だ。
「愛してる」のは、ロミオだ。
それが、さらに航平をかき乱す。当然なのに、ロミオはジュリエットを愛してるのに、なぜか航平はそれが忌々しくて舌打ちしたくなる。
(ワケわかんねー)
女でもないのに、このなよなよとした考えが嫌だった。
(コイツ、一発殴ってやろうか)
1歩の距離を航平が詰めたときである。
右腕を強く引かれた。ぐらりと傾ぐ上体。受け止め、さらに反転して自身の下に組み敷いたのは寝ていると思われた川瀬であった。
「っっ……何すっ!!」
腕と足で思いっきり抵抗する。が、川瀬はそれら全てをいなして完全に航平の動きを止める。
「も、限界」
「何言って………!」
「あのな、俺だって男だぞ」
頭の上で両腕を掴まれて、身じろぎしか出来ない。
「俺だって男だ! テメー何しやがる」
「いつもやってることじゃん」
川瀬の余裕は航平が吠えたごときでは崩れない。慣れたやり方で航平の口許すれすれまで唇を落とす。
「な、いつもやってることだろ」
上目遣いで確かめられる。航平は心臓が今更のように暴れ出すのを感じた。
(んだよ、こいつ、からかってんのか!?)
いつも、「じゃ、やるか」って感じで仕方なく練習を始めている二人であるが、これは単なる練習の抜き打ちだったのかと航平は少し安心する。心臓はまったく収まる様子もなかったけれども。
しかし、川瀬はほっと息をついた航平ににやりと笑いかけた。
「ここまではな………でもな」
すっと目が細まる川瀬。
「ギリギリまでって制約、男がいつまで我慢できるかしってるか?」
航平は、我知らずプルプルと顔を横に振っていた。
「今、この瞬間までだ」
(何言って………!!!)
体温だけが、そこの熱さを感じ取っていた。
ほんのりと空気越しに伝わっていた川瀬の体温を、そこで初めて直に味わっていた。
「………っ、んん」
(こいつまじでキスしやがった!!!!!)
濡れたように感じるのは、川瀬が舌を使っているからだ。上唇と下唇の間の隙間を突付かれて、こらえきれず航平はそっと口を開く。その隙間に川瀬に舌を差し込まれる。
舌を絡まされたときに、航平の血圧は最高点に達していたと思う。どくんっと大量の血液が心臓の外に排出されるのを体感した。
川瀬の舌は熱く航平を翻弄する。
上あごを舐められて、鼻からとんでもない声が漏れそうになった。
「………ゃっめーろ!!!」
航平は渾身の力で川瀬を押しのけた。はあはあ荒い息をつく。
「このバカっ! てめえ、何考えてんだ! 本番だって本気でやる必要ないんだぞ!っ!」
「はあ?だからだろ〜」
顔を離した川瀬に蹴りを食らわせて、ソファーの端に航平は逃げた。
「何でだからなんだ! ワケわかんないこと言うなよっ、俺心臓が飛び出てくるとこだったんだぞ!」
航平はもう泣きそうであった。
もしかしたら、知らないうちに涙も流れているかもしれない。
(なんで、川瀬が俺にキスとかすんだよ)
全てはフリのはずなのに。
ロミオとジュリエットという、役のためなのに。
(俺だけこんなにドキドキして………!!)
航平の目には、川瀬は飄々といつもどおりのマイペースな調子にしか見えなかった。航平のように、湯気が出てくるほど頬を赤らめたりも、ぐるぐるのパニックにも襲われていなくて………
「まあ、落ち着け」
なんて、航平を宥めている始末だ。
(俺だけっ!!)
航平の中で、ぱちんと切れるものがあった。
ソファーからがばっと立ち上がって川瀬をギッと睨み付けた。
「お前なんか大っっっ嫌いだ!!!」
捨て台詞を吐いて、航平は部室を飛び出していた。
+ + + + + + + + + + + + + +
後に残ったのは、大嫌いと宣言されてしまった川瀬である。
「参ったな………」
がしがしと髪を掻き毟る。
自分がこんな風に暴走するとは思っていなくて、対応が遅れて航平を逃がしてしまったことにいたく後悔している様子だった。
逃がしてしまった小鳥は貴重で、しかもその小鳥は川瀬の心情なんてまったく理解していないのだった。
前途多難。
コロンブスだって、1492年、パロスをサンタ=マリア号に乗って出航したときは先のことなんて何も想像がつかなかったことだろう。しかし彼はサン=サルバドル島に到着し、そこをインドと勘違いしたものの世界史に残る偉業を達成したのだ。やはりここは先攻押し切りだ。やったもん勝ちという川瀬の信条で勝負だ。
「覚悟してもらおうか」
航平の華奢な肩を思い出して、口の端を上げて笑う川瀬は、十分悪役の素質がありそうだった。
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