捨て台詞を吐いて飛び出したものの、航平の行く先なんてあんまり残されていない。
自宅に帰るべきか、それとも本番三日前でサボり、山岸女史の怒りを買うのを避けるべきかで悩みながらとぼとぼと歩いていた。
頭の中ではさっきのキスが繰り返し再生されていた。
いつも寸止めだった距離。触れそうで、絶対に侵犯されなかった空間。
川瀬はそれを踏み越えた。
そんな距離だけでも航平が心臓パンクしそうなほどドキドキしていたというのに、それをどうでもいいことのように、あっさり踏み越えやがった。
「ヨユーぶっこきやがって!!」
ちくしょーだ。
いつも川瀬はそうだ。歴史好きが高じてあの部室の扉を叩いたときも、中にあいつしかいなくて、どっからどう見ても高1に見えない奴に、航平は「入部したいんですけど、よろしくお願いします!!」、と敬語で話してしまったのだ。入部して1週間ほどはそのままずっと先輩だと思いつづけて敬語を使いつづけた。が、1年だけの体育測定の日に奴を見かけて初めて奴が自分と同じ学年であることに気づかされたのだ。
成績だって、航平に比べたらずっと上だし、ガタイも良いし、川瀬が航平を余裕たっぷりの視線で見るのも頷けてしまう話なのがさらにムカツキを増幅させる。
一番にムカツクのは、キスでめっちゃくちゃドキドキした自分。川瀬の前で何を言い出すか、自分でもわからなくなった。キスされたときも、変な声とか、出てきそう………だった、し。
「くっそ〜〜〜」
それもこれも、航平だけがぐるぐるになっていたからだと思うと、川瀬への怒りは止めど無い。
実は川瀬も寸止めのキスに限界だったなんて、航平の想像の隅っこにもない。
とぼとぼの歩みが、次第に周囲を蹴りまわすような乱暴な歩き方に変わっていた。
その航平が運動部系の部室棟を過ぎ去る時だった。
航平の耳に、タイムリーな名前がヒットする。
(………川瀬って聞こえた?)
自然と、その声の聞こえたほうに航平を首を巡らしていた。部室棟の一番端の部屋。薄く開いた窓の隙間から声は漏れ出していた。複数人数の気配。そこはサッカー部の部室だった。
「………川瀬やんのかなぁ?」
聞き耳を立ててようやくはっきりと聞こえる程度。航平はいつのまにかその窓の真下に陣取って、両の耳に手をダンボの様に当てて聞き入っていた。
「やるだろー、あいつはそういう男だ」
「だよな。俺、この間あいつが2年の吉住先輩と喧嘩してんの見たぜ。あれはきっとジュリエットの取り合いだな」
「おぉ〜〜〜決闘かよ!!」
「まじまじ、川瀬の一発、先輩の腹に入ってそれで終わりだったけどな」
「ひー、かっちょいいな」
「でもさ、そのジュリエットってそんなにカワイイ訳? だって男なんだろ?」
「うぇ〜、お前、鈴木こーへいちゃんを知らないとはもぐりだな。そんじょそこらの女よりは確実にカワイイ。生徒会長の小菅先輩レベルでカワイイ」
「うんうん、俺も、あのうぶな所がかーいーと思うぞぉ!」
「突付くと泣きそうだしな!」
ひとしきり、部内はその話題で盛り上がる。「俺、サッカー部辞めて、そのなんたら歴史研究会に入ろっかな?」という少年も現れる始末だ。航平としては、大変複雑な心境であった。
(俺は、カワイクなんか絶対ないぞ!!)
飛びこんでいって、一人一人薙ぎ倒したい。とはいえ、本当にやらかしたら逆に伸されるのは確実に航平のほうだろうが。
部室内の話題はいつのまにか移っていた。
「でもさ、いくら、そのこーへいちゃんがカワイクても男だろ? 俺はやだな〜」
「まーな。ヤローはヤローだしな」
「………ん? ということは、川瀬とこーへいちゃんっておホモ達なわけ?」
「まあ、そーゆーことになるな」
(そそそそそーゆーって!!!!!!!!!!!!!!!!!)
航平の二つの目と一つの口がO字にまあるく形どられた。
「ホモぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!?」
その真ん中の空洞から、絶叫が迸った。
その叫びは当然のように部室内のサッカー部1年たちにも届く。ざわざわっと場が騒然となる。幾人かの部室外へ飛び出す動きがあった。航平もショックで動きが鈍いものの、さすがにその場から駆け出す。
「俺はホモじゃねえええぇぇ〜〜〜〜!!!」
うぇうぇと嗚咽の滲んだ叫びが、航平の影に尾を引いた。
+ + + + + + + + + + + + + +
「俺、おれっ……うう〜〜〜」
泣き崩れて、塞ぎこんで、目を真っ赤にしても、喉が枯れるまで咽んでも、それでも日々は巡る。
気がついたら、山岸女史に自宅から連行されて今は控え室として運用されている「古今東西歴史研究会」部室に閉じ込められていた。周囲には山岸女史と坂口香苗がいて、航平の逃亡を防いでいた。さらに彼女たちは先程から航平にあれこれと世話を焼いているところだった。山岸女史は胸の飾りやさまざまなアクセサリーの最終チェックを、坂口香苗は髪のほつれを手直ししていた。二人とも、航平の最後の足掻きなんてまったく意に介していない。それよりも、あと30分後に迫った本番に向けて、なにか手抜かりはないかとその準備に余念がないといった様子である。
航平は、見事にカワイク着飾られていた。
完璧主義者の山岸女史が、姉の彼氏の友人の従兄弟から調達したというドレスは映画会社のストックからの横流しらしく、非常に凝った作りになっていた。航平にはそんなことはどうでもよく、「ひらひらのふわふわ」で「足がすーすー」してなんとも居心地が悪かった。女の子はこんなものを、それも膝上何十センチも短くして着ていて、こう………落ち着くもんなんだろうか。不安定で、絶対そわそわなるぞ!!
「航平、お前は私の予想以上に素晴らしいな! 実に素晴らしい!」
これほど手放しで、この山岸女史が航平を褒めちぎるのは初めてだった。しかし、航平はちっとも嬉しくなかった。恨みがましい目を山岸女史に向ける。
「全然………ちっとも嬉しくない」
「そう謙遜しなくても良い」
「謙遜なんかしてない………こんなの絶対ヤダ」
「似合うんだからいいじゃないか。一応、航平に合うようにと色形は私が注文してたのだが、これほど理想どおりとはな………航平、君はこれからピンクの服を買うことを勧める」
ぐぅっとうめく航平。まさしく山岸女史の言うとおり、全体的にピンクのドレスがこれまたよく似合うのだ。髪も少しカールの入ったウィッグが航平の小顔によく映える。元気なお姫サマというイメージである。
「だから、嫌なんだって!!」
「………ふう。まったく何がそんなに気に食わないんだ?」
「女装」
「―――却下」
即答で返される。
「それを君が着ないと私の苦労が霧散する」
衣装を借りるために裏の裏工作をしたらしき山岸女史は容赦ない。
「………ぅぅ。だって………こんなの着てたら、俺ホモみたいじゃんかぁ〜」
情けなくも涙声で呟く航平である。山岸女史はちっと舌打ちした。
「またそれか」
本日朝7時30分、泣き喚く航平を彼の自室から引きずり出して連行してきた時も、ひたすらそう言われつづけた山岸女史である。有無を言わさず引っ立てて、この部室に閉じ込めて着飾らせ続けて早3時間。その間も何度となくそれを掘り返す航平にいい加減イライラする。
「男なら観念しろ」
「ぅぅ、だって、まるきり、俺ホモじゃん。みんなの前で恥晒すんだぁぁぁぁ!!」
イライラするが、フォローの必要性も感じる。そのぐらい航平はキている様子である。このままではまともに演技すら出来なそうではないか。なにせ、この航平は山岸女史の怒りを関せず、この二日間、練習をサボりやがったのである。
「ちっ。―――安心しろ、間違いなく君のその状態はホモじゃない」
「えっ!」
「ホモじゃなくて、どこからどう見てもオカマだ」
しかし山岸女史のフォローは見事に滑って、航平の精神状態をさらに沈めさせてしまった。ずーんと肩を落とす航平。そこへ、坂口香苗が助け舟とばかりに口を差し挟む。
「あら、真希さん。オカマってホモとどう違うのかしら?」
―――どうやら助け舟ではなくて、純粋に好奇心だったらしい。
「うーん。私にはよくわからんが、ベクトルの向きは同じで質が違うのだろう」
「では同じようなものですわね」
「そういうことになるな」
―――どうやらこの二人、あんまり航平の精神状態の浮沈を問題にしていないようだ。強制的に舞台に放り投げたら、あとはなるようになると考えているらしい。少なくとも航平が調子っぱずれでも、川瀬がなんとか収拾をつけるであろうから。
「ああ、そろそろ川瀬も用意が終わる頃だな」
時計を確認して山岸女史が漏らした。その名に、航平があからさまに反応した。
「うぇえええええ!」
(ムリだ。ムリムリ、絶対、あいつに会いたくない!)
うじうじと、この二日間航平を悩ませた張本人ではないか。航平のホモ疑惑を作った奴ではないか!
「やだぁああああああ〜〜〜〜〜」
叫んだものの、時間はそろそろタイムリミットを告げている。本番まであと25分ほど。部室のドアが開かれ、宮迫希ののんきな顔がひょっと覗いた。中の様子を見て、航平を見て、黄色い声を上げた。
「いっやぁああ〜〜〜!! こーへーちゃん、最高にカワイイぃぃ!!」
ハートマークが二、三十個は噴出し、飛びまわるような声。たぶん、彼女の興奮はそのとき絶頂を極めていただろう。
「もう、ばっちりきっぱりお似合いですよぉ! ロミオと並んだらくらくらしちゃいそーです。ねっ、川瀬くん!!」
後ろを振り向き、相槌を求める。そして、こちらにまた振りかえって満面の笑顔で告げた。
「ロミオ王子サマ、スタンバイOKです!!」
+ + + + + + + + + + + + + +
宮迫に背を押されるようにして、部室に姿を現した川瀬は、宮迫の言うように確かに「王子サマ」に変貌していた。
縁取りの鮮やかな襟の高い上着。ズボンの裾はブーツに絞られていて、長い川瀬の脚を強調している様だった。羽織ったマントが実にカッコイイ。
(俺とは正反対だぁっ!)
情けない女装姿の航平とは月とスッポンの差だ。航平は囚われた様にロミオ川瀬に釘付けになる。その視線を川瀬に捕られて、二人視線が練り合う。
「………航平、」
ぼそりと川瀬が呟く。
なんだか、航平は頬が上気し始めるのがわかった。久しぶりの川瀬、久しぶりの川瀬の声。逃げてたけど、頭の中ではめちゃめちゃ川瀬ばっかりで、でも実在の川瀬は想像の川瀬とは一味違ってて―――しかも今日は格好までぜんぜん変わってて。
「………んだよ?」
思いきり気を詰まらせないと、また変なことを口走りそうだった。絡み合った視線をギロリと睨みに変える。
「いや」
「―――それ以上、なんか言ったらおまえコロス」
波動のように川瀬の言いたいことが伝わってきて、ギリギリと睨みを強くする。
(くっそ〜〜〜、コイツ絶対バカにしてる)
にやにやと口の端を緩めているのがその証拠だ。やっぱり、ムカツク奴である。
「いえいえ、俺がジュリエットに言うことは一つだけだから」
「なんだよ、それ?」
相変わらずワケわかんない奴でもある。だか、少なくともこれだけ回りに人がいれば、この間のような究極ワケわかんないことをしでかすことはないだろう。航平の心臓も安泰だ。と、胸をなでおろした航平に、山岸女史の無情な言葉が突き刺さる。
「残りの時間、主役の二人で打ち合わせするところもあるだろう。邪魔者の我々は一旦下がるとするよ。―――また、本番10分前に迎えをよこす」
(ええ〜〜〜〜!)
航平が驚いている間にも、山岸女史は坂口香苗と宮迫希を引き連れて部室を出ていってしまった。最後に宮迫が振り向いて「ムフフ」と笑ったのが航平の角膜に残像した。
そして、室内に航平と川瀬だけが取り残された。二人とも衣装で着飾った姿。ある意味ちょっと不気味である。
航平は扉のほうを向いて、後ろを振り返ることが出来なかった。川瀬のソファーに座る音が室内に響いた。
「なー」
そちらの方向からの川瀬の声。
「お前も座れば?」
ほれほれ、ここ、とソファーをはたく音。しかし、航平はぴくりとも動けなかった。いやに自分の心臓の音が意識されて、足が床から生えたように動かせなかったのだ。
ずばり航平は緊張しているのだった。
(やばい〜やばい〜)
冷や汗なんてものまで流れてくる。このままではさすがにまずいだろうとも思うのだが。
(うーごーけーなーいぃぃぃぃぃ)
これでは、川瀬に意識しまくってますと宣言しているようなものだ。なんとか体を制御しようとする。が、瞬きすら意のままにならなかった。金縛り状態。その体が、ふわっと浮いたのは次の瞬間だった。
「あ〜〜〜〜も〜〜〜〜手間のかかる奴だな」
そう言った川瀬が、航平を持ち上げてソファーまで抱き連れたのだ。
「やっっ!」
金縛りが引き攣る。当然のようにソファーで川瀬が上に覆い被さってきたから。
いくらたくさん練習しても、この体勢は慣れるもんじゃない。それに、考えて見るとあの時のキス以来だったりもするから、航平としては居たたまれなかった。ぎゅっと眉を引き締める。
「………そんなに嫌なのかよ?」
そんな航平に、川瀬の心底重いため息が降りかかった。
「俺じゃ、そんなに嫌なのか? 紺屋先輩のがイイのか?」
「え?」
意外な名前が出てきて、航平を混乱させた。
「紺屋先輩となら、お前めちゃくちゃ身を任せてるだろ? でも俺とだと、いっつもそーやって嫌そうに固まって………」
(はぁ??)
よくわからないが、練習の時のことを言ってるのだろうか。時々、紺屋先輩がじきじきに演技指導してくれる、その時のことを。
「お前がそんなだから、俺だってあんな暴走しちまうし………ま、謝りはしないけど………」
「ええええ?」
暴走って、この間のキスのことか?
「マジ本気っぽいし」
「本気??」
ますます、ワケわかんな………いや、わかりそうで、そんな世間は甘くないかもなんて自分をたしなめている気持ちもあったりして………
しかもこの体勢は相当やばくて。
思考回路のねじが3本ぐらいは緩んでしまう。
「俺………だって……ホモって言われた、し」
「はあ?」
いきなりの航平の話題変換に川瀬があやふやに表情を崩す。
(やばい、絶対変なこと言う)
「お前、俺にキスするし………お前近くにいると、俺、めちゃくちゃ心臓痛いし」
ぽつりぽつりと一言ずつ言う航平。
川瀬はあやふやな顔に、少しだけ表情を加えて先を促す。
「俺ばっかりドキドキするし」
今の今だって、川瀬に上を取られて、ひっきりなしに心臓が飛び跳ねてる。
こんなのは川瀬だけ。他の誰も、どんなに近づかれても心臓はびくともしない。
川瀬だけが、変にさせる。
(すげぇ………音)
苦しい。川瀬が近すぎて苦しい。
この気持ちってなんて言うんだ?
「………でも、絶対俺はホモじゃない」
川瀬をじっと見つめてそう言う。
川瀬はうっすら笑っていた。あやふやだった表情に、一つの確信を加えて。航平の一番嫌いな川瀬の顔。自信たっぷりに航平を見下げる顔。―――でも今のその顔は、視線がものすごく優しくて、とろける様に航平を見つめていて………
「知ってる。俺だって、ホモじゃない」
航平を包みこむ川瀬。両頬を川瀬の両手でそぅっとくるまれて、そこだけ火がついたようになる。頬の血管まで、心臓みたいに飛び跳ねた。
「ロミオはジュリエットを愛してる」
よく聞けよ、そう川瀬の視線が航平に告げていた。
「でも俺は、お前にしか言わないんだ。お前にだけ、そう言うんだ」
わかったか?
また視線でそう告げられて、航平の心臓は過労で止まる寸前だった。
でも、息の根が止まる前に、これだけは伝えないといけない事。
「お、俺も………」
全部言いきる前に、誓いのように川瀬の唇が落ちてきて、航平は完全にオーバーヒートしてしまった。
だから航平は聞かずにすんだ。
長すぎるキスを航平に与えた川瀬が、世紀の悪党・怪僧ラスプーチンばりに不敵な笑みを浮かべてこう言ったことを。
「………今日のところは、とりあえずこのぐらいの成果で許してやろう」
甘く、沁みこむように航平の耳元で囁いたことを。
翌日。
県立甲稜高校のごくごく一部の生徒がホクホク顔で豪遊していた事実と、何割かの男子生徒の意気消沈した姿、そして―――とある一年男児Aの真っ赤なリンゴ頬から、全校生徒を巻き込んだ賭けにどちらが勝利せしめたのか推測してほしい。
その最大のヒントは、きっと、とある一年男子Bが余裕ありげな笑みを浮かべ、ジュリエットが部室に飛び込んで来るのを今かと待ちわびている、その姿なのかもしれない。
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