「い、一佳(いちか)くん……」
僕は慌てて、すっと伸びてきた一佳くんの右手を払った。
払いのけた瞬間に、これでもかって言うぐらい一佳くんの横顔がしかめられたけれど、そんなことに構っている場合じゃない。
「あのね、今は問い3を計算しているところでしょ?」
なんて、今更ながら常識的に諭してみせる。―――が、そんな当たり前の論法で納得してくれる一佳くんではない。
「みやちゃん先生のせーだよ」
一佳くんは椅子に全身を預けるように深く腰掛けて、そうぼやいた。はっきりと、濡れ衣である。僕はまたいつもの展開かと、こっそりとため息を付いた。
ちなみに―――なんだけど、僕の名前は『みやちゃん』と呼ばれるたぐいの、カワイららしくも女の子っぽい名前なんかでは決してない……断じてないのだ!!
遠藤宮彦(えんどう みやひこ)という、字面的にも響き的にも真に男らしい名前を親から貰っている。だというのに、この一佳くんは、家庭教師とその生徒という立場で出会って、最初の一言目が、「じゃあ、俺、先生のこと『みやちゃん先生』って呼ぶね!」だったのだ。それも、コチラからでは―――大人の対応として断り切れないほどの、邪気のないにっこり笑顔満面で。
「……はぁ」
結局僕は、一佳くんに相当弱いんだと思う。この1ヶ月、幾度となく、いろんな局面でそう思わせられている。
僕のため息に気付いたんだろう、一佳くんはますますその笑顔に磨きをかけて、僕の方に詰め寄ってきた。
「ホラ、そーゆーとこ。俺、もお、先生の息遣い一つでヤバくなるんだよ。どうしよっか、みやちゃん」
子供っていうのは、そんな風に邪気をまるで発せずに、大人の僕を羞恥心でいっぱいにさせるようなことを言うのが得意なんだろうか?
それとも、これは一佳くんだけの得意技なんだろうか? いや、それとも―――考えるのも恐ろしいけれど、これは僕の側に問題があるとでも言うんだろうか……
冷汗が感じられた額に、そろりと一佳くんの体温の低めの指先が添う。
その指先で遮られながらもはっきりと見えたのは、まだまだ子供らしさの抜けない―――だからこそ、僕には全然手に負えない存在となっている一佳くんのしたり顔。覗く歯列が、実に若々しい。
「させてくんなきゃ、俺、小問一問たりとも解けないから!」
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「……ぅん…ッは……!」
日曜の真ッ昼間っから、そんな濡れた声を上げているのが僕の口なんだという現実を、できるならばこの世から消し去りたい。それも、7歳も年下の中学生相手に……どちらかというと、僕の方が受身っぽくキスをされて。しかも、そういうのが実は、今回が初めてってワケじゃないっていう―――そういう近況。ヤバイ、よなぁ。
唇を振れ合わすだけのキスは、最初の一回きりで―――2回目以降からは遠慮会釈なんかサラサラないぐらい思いっきり深めのディープキス。びっくりして制止させようともがいた僕に、一佳くんはただ一言、「先生の所為で落ちたって言うよ?」なのだ。ある意味、ものすごい殺し文句だと思う。
そもそも、大学4年になるかならないかで就職を決めることができた僕の、持て余した時間を家庭教師でもして稼ごうなんていう考えが甘かったとでもいうのか。いやいや、単純に運が悪かったというのか。紹介された生徒がこんな悪ガキだったなんて、想像すらもしなかった。―――だって、普通、受験生がソレを武器にして先生を威すなんて思うか?
「先生が魅力的すぎて、俺、全然勉強に集中できない」だとか言うのか? とにかく割り当てられた2時間分はきっちり勉強させようと苦慮している人に向かって、「ヨッキュー不満を解消させてくれたら、俺、がんばるって」だとか!
にっこり無邪気に笑って、「チューしよう! ね、みやちゃん先生、俺とチューしようよ〜!」って!!
しかも、である。
最近の子供はどうしようもないんだ、仕方ない、キスぐらいなんだ、何が減るって言うんだ、一佳くんがそれでがんばってくれるんなら別にキスの一つや二つや……なんて、強引に一般常識うんぬんを捻じり込んだ僕に対して―――ここ最近の一佳くんは、さらに大胆に強引にのべつまくなし虎視眈々と―――それ以上の行動を起こそうと、しているように……見える、んだよね……いや、ホント。
だって―――と、僕の意識は不意に現実に返された。
「あっ……ちょっと、ちょ……一佳、くんッッ!!」
手! その手、めちゃくちゃヤバイから!!
僕は慌てて、下半身に伸びてきた一佳くんの指先を払いのけた。
ものすごく恣意的な動きは、まさしく目的のナニかを目指していたのだ。僕の慌てっぷりも、火急的にならざるを得ない。
「やだなー、みやちゃん先生ってば何そーぞーしてんの?」
冗談混じりに告げてくる一佳くんの声が、微妙に冗談だけじゃないものを伝えてくる……気がするし。いや、絶対、そのにやーっていう笑顔が確信的、だよなぁ。
キスで僕の反論も何もかもを塞ごうとしている一佳くんに、デコピンをいれる。
イテっと、一佳くんが反射的に額を押さえた隙に、その半包囲を抜け出そうとした―――けれど、相手も二度目となると用心しているというのか、昨日のように無事逃げ遂せることはできなかった。どころか、もっと強い力で抱き寄せられる。
「一佳くん、コラ……離しなさいって」
情けないけど、仕方ない。僕はできるだけ大人の顔を装って、一佳くんに顰め面を向けた。
「えー、やだよ、今めちゃくちゃイイ体勢だもん。俺、こーゆー抱っこの仕方すごい好き」
「好きとかじゃなくてね……」
横からぎゅむーっと抱き抱えられたこの状態は、僕としては非常に困るのだ。何度も確認するけど、僕と一佳くんは大学生と中学生、その年の差7歳にものぼる年月が二人の間に横たわっているはずなのだ。
はすなんだけど……体格的にも、別に取りたてて負けてるはずはないっていうのに、そこは長距離自転車通学を元気よくこなしている現役中学生と、スポーツってものから足がはるか遠のいてしまった大学生の差っていうのか―――そもそもこういう状況での”やる気”に大きな差があるっていうのか、なんだか諦めまじりの僕に、一佳くんのやる気マンマンな笑顔はかなり強力らしい。
「じゃあさー、みやちゃん先生、この辺にキスしてイイ?」
ニコニコ笑顔で首筋をちょんちょんと指差される。
全然良くはないんだけど……
「そしたら、問い3やる?」
交換条件ぐらいならと、譲歩してしまう。ニカっと笑った一佳くんの笑顔が眩しいぐらいだ。
けれど―――譲歩なんていう、大人の駆け引きを持ちかけたこの僕に、子供の容赦ない逆襲が降りかかって来た。
「いッ―――ッう!!!!!!!!!!」
詰まった悲鳴を上げる。ごしごしと首筋を擦り上げるけれど、これは……この感覚は……
「うわー、すっげぇ、赤い!!」
嬉々とはしゃぐ一佳くんは、してやったりと唇をにんまりと形作る。
僕の方は、あんまりな出来事にわなわなと震えるだけだった。
だってそれは……それは。
「これで、みやちゃんは俺のモンーッッ!!」
弾む口調で堂々宣言する一佳くんに、思いっきり脱力してしまう。
……あああああああああああのね、まったく、一体どこら辺で、そういう無駄な知識を得たって言うんだろう、ホント、真面目に。
僕はジンジンとうずくその痕を、人差し指と中指でもう一度確認した。
ううっ、どう考えても見える所に付いたっぽい。
男の首筋にキスマークはさすがにヤバイだろう。ああ、とにもかくにも今が夏休み中でホントに良かった。
盛大なため息が零れる。
「……気が済んだ?」
口から出てきたのは、そんな力ない台詞。
一佳くんは、若い情熱がある程度充たされたのか―――肯定の言葉とともに、ぶんぶんとその首を振って見せた。
その姿は、懐きまくったワンコみたいで、やっぱりちょっとカワイイんだよなぁ。
でも。
よし、じゃーもう一回、きちんと問い3解いてみよーねーなんて、仕切りなおしに威勢良く言った僕に対して、一佳くんは負けず劣らずの元気いっぱいの声と笑顔で切り返して来たのだ。
「みやちゃん先生、次は絶対、絶対に、“最後まで”させてよね!!」
じゃないと俺、もんもん死するから。
結構凶悪な台詞がお似合いの無邪気な笑顔で。
……ああ。
僕、ちゃんとこの子を高校に合格させられるのかな?
一抹どころか、極太サインペンで描き殴ったレベルの不安が胸をよぎる―――けど。
実はホントの不安は、もっと奥の方。
ざわざわしている胸のど真ん中辺りで。
理性と一般常識がタッグを組んでて、なかなか強敵なんだけれど、ラウンドはまだ打ち鳴らされたばかり。契約が切れるのは来年3月半ば―――そう、まだ始まったばかりなんだ。
「夏明けの実力模試次第で……少しは考慮してやってもいいけど、何はともあれ、一佳くんの今の成績だと、尚学館の判定は厳しいだろうね〜」
僕は、なるたけ大人な微笑を浮かべて見せた。
とりあえず今は、目先のこの数学問題集を、きっちり一佳くんに解いてもらわなきゃいけないのだった。
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