◆◇ 3 ◇◆
何かに押し潰されるような感覚を胸部にもって、アリーナ君は目覚めた。とにもかくにも、重たいのはもうごめんな気持ちである。しかし、その重たい物体を押し退けて飛び起きようと勢いづいたその視界に、アリーナ君をそこまで追い詰めた張本人の、美の神もかくやあらんとばかりの端麗な顔を激しく間近に捉えて―――アリーナ君はベッドの上で大きく仰け反った。
(なななななななんなんだよ、一体?!)
頭の中は大パニックである。1年に1度しか鳴らない至エンデル大祭の幕開けを高らかに告げるヴ=エル大聖塔の大鐘が、大盤振る舞いでがこんがこんと炸裂している感じ。アリーナ君は小さくうめいた。その肩口からアリーナ君の背に、カリの右腕が回っていた。重たいと感じたのは、その腕だったのだ。
だれが、どこからどう見まわしてみたところで、一つベッドの上でアリーナ君がカリに半ば抱き寄せられるようにして、その腕の中に収められているのだ。勘違いする余地すらなく、抱き締められている!
うぎゃぁああああ……と、アリーナ君は頭の中だけで叫んだ。伴奏のように大鐘の重低音が轟く。
(なんで…っ!? オレ、一体どうしてっ??)
カリのばさりと頬に影を落とす睫毛を―――それが色為す整い過ぎた美貌に目を奪われながらも、アリーナ君は必死になって記憶を紐解こうとした。頭の上がひっきりなしにぱさぱさしているのは、あの悪夢のような―――とアリーナ君によって認識されているネコ耳なのは間違いない。
ええええと………と、一番最近の記憶を引き出したアリーナ君は、思わずカリにギリリと睨みを入れていた。もしカリがそれを目撃していたなら、「おやおや、この私に何かご不満でもあるのかな?」なんて言って、嬉々としてお仕置きをしてしまいたくなるような、そんな反抗的な眼差しである。今回はカリが眠っているのか目を閉じているため、そんな事態を免れえたようであるが。
(……こいつがぁああああっっ!!!!!!!!)
アリーナ君は憤然とこぶしを握った。
その微動に仄かに音を立てる首もとが、さらに怒りを沸騰させる。
くっそう、だ。
逃げられないように、近くにいるようにっていう魔法をかけておいて、その当人が遠ざかるのだ。冗談も大概にしろってカンジだ。アリーナ君のもともと糸のように細い堪忍袋の尾なんかとっくに引き千切られている。立ち止まったらどかん!で、立ち止まらないなら背中に重たい荷物を背負った過酷なランニング。本当にめちゃくちゃ大変だったのである。こっちは命がけなんだぞと言いたい。言って、お前のがほとんどなんだからお前が荷物を持つべきだと言えるものなら言ってやりたい!
………って、
(………あれ?)
そこでアリーナ君はおかしな事に気付いた。いや、今まで考えが寄らないのがおかしなぐらいだ。カリに抱き寄せられた格好の、その僅かな稼動範囲だけで、周囲に目を配った。
荷物が―――ない?
………いや、違う。
なんか、根本的に抜けてる。
(そ、だ………)
どうにか――どうにか、鉛付きの足枷を何重にも巻いたような重い足取りでカリに追いついて、捕まえて……逆に引き寄せられて………それから………それから?
首をひねった。
(息があんまりうまく出来なくて、苦しくて……)
ぎゅって、今よりももっと強くカリに引き寄せられた。やめろって思ったけど、ぐてんぐてんになった体は全然動いてくんなくて、でも、それでもどうにか振り払おうとしたら……そう、そうだ。
(眠れって、言われた)
まだあんまり慣れない頭のななめ上の方にある耳を――ふさふさのネコ耳の内側の敏感なトコに息を吹きかけられて、それで。
―――「眠れ」と囁かれた。吐息にも似た、微かな声。
鼓膜がソフトにそれを受け止めた途端、アリーナ君の意識は穏やかな波に包まれていた。全身を覆う倦怠も筋肉のきしみも、引き潮のように引いて………
最後の感覚は額の淡い熱。そこから暖かいのが全身に行き渡った。
(………ぅぅ)
アリーナ君は反射的にしかめっ面を作っていた。何とか動く右手の袖で、額のほんのりと残った感触をごしごしと拭った。意地になって、赤く皮膚が腫れるぐらいまで擦って、擦りあげて、ようやく満足して額から腕を離したら。
(ぐぅうううう!)
腕で死角なってた。腕の中に収められてた態勢の、だからちょうどアリーナ君の額の上の方。
腕を退けた途端、怯まずにはいられないぐらいの深い、漆黒の常闇の瞳とかち合った。
「……ずいぶんと寝相の悪い子だ」
逸らす事も出来ず、仕方ないのでアリーナ君は思いきりその瞳を睨みつけた。あとからたっぷり報復を受けるのはわかっているし、これでもかってぐらい経験済みなのだが、それでもこの居心地の悪さに比べればましだ。そのぐらい、こういう顔をしてる時のカリが苦手なのである。いつもみたいに100本針を飲ませても平気そうな図太い不遜な顔つきでイロイロ命令されてる方がまだいい。全然、いい。
なのに、そう思っているアリーナ君の頭から額にかけて、カリは穏やかな手つきで撫でまわすのだ。小さい子供にするみたいに、くしゃくしゃーって。冷たい指先で額にかかる髪を掬って毛束に戻す。
「私の横に寝かしつけたと思ったら、寝返り一つでベッドから落ちそうになる。引き戻したら今度は腕を振りまわしてくるし、足癖は悪いし………よくまぁ、今まで鈴の法囲内に居られたものだ」
なぜかめちゃめちゃ機嫌のいいカリは、アリーナ君の不服いっぱいの顔に微笑を降らせる。どこか、アリーナ君のますます膨れてゆくほっぺを愉しんでいる節もある。ふと、会心の笑みを浮かべてカリはアリーナ君を胸元に引き寄せた。
「でも、こうしておけばいいね」
背に回された腕に力がこめられて、びっくりするぐらい深く抱きしめられた。その拍子に、首もとの鈴がちりんって鳴って、アリーナ君は無我夢中で叫んでいた。
「……よくっ、ない! 全然よくない、オレ下でイイ、下のがイイ!! 絶対イイ!!」
ばくばく心臓が高鳴ってるのがわかってしまい、ほんとにものすごく慌ててしまうアリーナ君である。なにせ、基本的にこの旅行中、”鈴の呪い”のせいでカリとの同室をずっと強いられてきたのだ。カリとの相対位置が小さな鈴の音の可聴範囲を超えたらどかん!な呪いがゆえに致し方なかった。だから、一等宿の豪華な天蓋付きのベッドに寛ぐカリを尻目に、そのベッド下にテーブルクロスとかの寄せ集めの布で寝床を作って、そこで丸まって眠っていたアリーナ君である。ホントのネコみたいだが、カリと同じベッドに寝ないといけないかと思えばそっちの方が遥かにましなのだ。
(……だだだだだって、今は機嫌がいいからよかったけど、オレ本当に寝相悪いし、頭とかぶん殴って怒らせたらどうなるか怖くて考えたくないし………)
ずっと以前だが、足が滑った勢いで手元の花瓶を見事に飛ばして、カリに頭から黒百合と水をぶちまけた事があった。そのときのお仕置きたるや、思い出しただけで胸焼けがしそうになるぐらいひどかった。身に染み渡ってカリに苛め抜かれたアリーナ君なのだ。
(それに………)
アリーナ君はむぎゅうと押し付けられた胸から逃れようと、両手を間に割り込ませた。全力で押し退けようとして………びくともしないのを確認しただけで、カリの細腕のどこら辺にそんな力が秘められてるんだろうって思う。
思うのは、それだけじゃない。それだけじゃないってのは、悔しいとかムカツクとか力への恐怖とか嫉妬とか反発とか……それだけじゃ、ないってことなのか。
(わかんないけど)
いつもそこら辺で躓いてしまう謎に、いつもと同じように躓いて―――アリーナ君は脱出を諦めてカリを見上げた。
そこに、両目を細めてこちらを見返すカリを捉えて、アリーナ君はものすごくどぎまぎしてしまった。カリの、なんでも知ってるって顔はやっぱり苦手だと思わせる、そんな顔。くすって笑う。
「道端で迷惑にも倒れたひ弱な子を、わざわざ介抱して、わざわざ荷物も運んであげて、わざわざ宿屋まで連れてきてあげて、わざわざ寝かしつけた挙句ベッドから落ちないようにわざわざ抱きしめてあげた恩人に向かって、その言い草ですか?」
「わざわざって、アンタが!」
(あ!)
言った途端、己の失態に気付いてアリーナ君は顔を強張らせた。
即座にカリはにやりと口端を吊り上げた。一番苦手な表情がすぅっと引いて、一番慣れ親しんだ………つまるところアリーナ君にとっては結局鬼門な表情で。
「アンタとは……ひどい言い様ですね。そういう風に思ってたんですねぇ、君の優しい師のことを。ふうん、そう………」
「あ……や………ちがって、」
早くもあわあわとしだすアリーナ君である。こういうピンチに非常に敏感になってきた今日この頃なのだ。背中をさするカリの指の動きがなんだか怖い。俯いたアリーナ君の、無防備なネコ耳の先端を柔噛みされる。
「それに、言葉も汚いな。困ったね」
「ああああああああ、ええと………」
耳の内側を舌でたどられると、すごくぞわぞわしてしまう。嫌な予感と合わせて、相乗効果でアリーナ君を動揺させる。その、ぶるぶる震えた耳に。
「……お仕置きしないと、ね」
それはそれは邪悪な囁きが零れてきて。
やっぱり!!!!!! ―――と、アリーナ君が顔を青ざめさせたのは言うまでもない。
(03.01.20)
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