◆◇ 4 ◇◆
いたたまれない時間というものがある。いたたまれない状況というものがある。そしてアリーナ君は、今まさにいたたまれなさの頂点に君臨していた。
背後からまわされたカリの指先があごをさする。もう片方の腕は腰にまわされてて――逃れることなんか元々考えてないけれど、逃れることなんか絶対出来ないんだろうなぁ……と確信するには充分な力が込められている。
誰か助けてーなんて、チラリとは考えてみるものの、唯一助けてくれそうなリファインはご馳走や果物・酒などがごったに立ち並んだテーブル越しに呆れたような流し目を送るばかりだ。酒場独特の荒くれた喧騒の最中、黒麦酒のグラスを、あおる訳でもなくただ中指で小刻みに突付いている辺り、リファインも辛抱の限界を覚えているのかもしれない。
しかし、それも仕方ないことではあるのだ。リファインにしてみれば、「貴様何を考えている!」を百回繰り返したくなるような顛末だったのだ。いや、現在、今この瞬間すらも、「何を考えている!」と一喝したくなるのだが。
リファインは軽く目を閉じた。
アリーナ君も―――こんな盛況の酒場で戯れにからかわれて非常に可哀相ではあるが、リファインだって相当苦労を強いられたのだ。
本日真昼のことである。公道のど真ん中で、アリーナ君を抱えたカリが、その唇に口付けを重ねた直後、ふいっとアリーナ君ともども姿をくらましたのだ。空間を跳んだというのは直感したものの、行き先はまったく告げられなかったリファインであったが、前後の話から取るもとりあえずジエルフェンドに急いだ。そして、決して良くもない治安の町を、宿屋に当てをつけてしらみつぶしに探しまわったリファインがとうとうカリを見つけたのは、陽がすでに山裾にかかる時間帯であった。経緯はどうあれ、ともかくも―――”ジエルフェンドの赫い旋風”こと赫斗に関する情報を得ないとならない。なにせ、この町、ジエルフェンドは悪の巣窟の名を欲しいままにする町だ。リファインも旅装に身を包んだせいか、その宿屋に辿り着くまでの間に、三度ほどゴロツキどもに絡まれたりしていた。しかし―――さあ、どうすると今後の出方について協議しようと口を開きかけたリファインに、カリは言ったのである。「情報収集といったら、やはり酒場だよねぇ」と。
しかし。しかしである。
リファインは閉じていた目を薄く開いた。その目が、自然とキツめに細まるのは、もはや致し方ないといえるだろう。
リファインの視界、見たくもないというのにその中央にどどーんと、嫌がるアリーナ君を後背から羽交い締めにしてもてあそぶカリが、不敵に笑って見せていた。
◇ ◆ ◇ ◆
今まで、アリーナ君は数々のお仕置きと称するイジワルを受けてきた。
新しいところでは、ちょこんと立ったこの奇妙奇天烈なネコ耳であるし、つい先日失効した「ご主人様」自動変換であろう。過去には、アリーナ君が歩いた後から後からポンポン花が舞い落ちる――花びらではなく花そのものが空にポンポン咲いては落ちてゆくのである。不気味というか、あまりのバカバカしさにうんざりした覚えがあるお仕置きもあった。しかも、舞い落ちた花を片付けるのは当然アリーナ君で、片付けた先から花がポンポン沸いて出てくるのだ。本当にうんざりだった。他にもさまざま―――時には、”30分以内で湖の反対側に生える薬草を取ってこい”といった体力勝負のお仕置きもあったり、断崖絶壁に一人取り残されたりと―――あの手この手を使って、結局のところカリが企図しているのが、弱弱しくうち震えたアリーナ君が「ごめんなさい」と謝るのを見て悦に浸ることだとは、まったく知らぬ存ぜぬアリーナ君である。弱みなんて見せられるか!なんていう可愛らしい反抗意識のおかげで、たーんとカリを楽しませて、結果世界平和の一助となっているのだ。
そして現在。
世界平和というよりも、ジエルフェンドの荒くれ者達の目の保養というか、ある意味目の毒なのかも知れない状況に陥っているアリーナ君であったりする。
身を捩って振り払おうとしても、カリの指先は滑るようにアリーナ君の弱いところを刺激してゆく。その度上げる「んー、んーっ!」なんていう吐息が、これまたなんとも言えず可愛らしい。酒場は喧騒を幾分残しているものの、大半の者が生唾飲んでアリーナ君を見つめていた。恥ずかしそうに頬を染めているのがまた愛らしい。
今回のお仕置きとは、ずばりソレだった。「お仕置きしないとね」といった口で、次の刹那には「イアンも来たし、じゃ、行こうか」で―――(イアンって、リファインいないじゃんか)と首をかしげたアリーナ君の視界で、部屋の扉が勢いよく開いて、当のリファインが現れたのである。その彼に「情報収集といったら、酒場だよねぇ」と告げたカリが、アリーナ君の手を取ってこのやたらと人がいっぱいの酒場に連行して………その時から、すごく、ものすごーく嫌な予感がしてたのだ。
アリーナ君はびくんっとはねた。耳の内側の、やたらと敏感な部分を舐められたのだ。続いてふぅっと息を吐きかけられて、堪らず首を振った。
酒場に入り、席につくなり、である。後ろから抱えられて、カリの膝の上に座らされたのだ。びっくりして振りほどこうと足掻いたアリーナ君であるが、魔法でも掛けられたみたいに腰に回されたカリの腕は強くて―――そのまま、酒場中の注目を集めつつカリに弄ばれているという次第であった。
(うー、うぅー!)
頭の中では盛大に唸っているのだが、余計な口を叩いてもっと恥ずかしい事をされたら堪らない。なんてったって公開お仕置きなのだ。アリーナ君はただひたすらに時間の経過を願った。その、力なく垂れ下がった耳に、カリの微笑と―――リファインの苦渋に満ち溢れた声音が重なる。
「いい加減にしておくがいい」
「何を? どんな風に?」
返すカリの語尾は、おちょくるように間延びしている。アリーナ君の首もとをあらわにすると、その筋をたどるように舌を這わせて見せた。
「ああ、こういうのとか?」
上目遣いでリファインに送る視線は愉しげに揺らめいている。まったくもってあいも変わらず底意地の悪い男である。
リファインが途端に渋面をますます深めるのを、本当に、心の底の底から愉しんでいるのである。カリにとっては、世の中というモノは人も自然も国も物質も、基本的に自分を愉しませるために存在しているのであろう。
悦に入ったようにアリーナ君を舐めまわすカリに、平常心を保つべく呼吸を整えつつ、リファインは告げた。人間の言葉があまり通じない相手に、とやかく言うだけ無駄なのだ。用件のみ、ダイレクトに伝えるしかない。
「目立つ真似はよせ」
ここは悪党の巣窟なのである。筋金入りの連中がのさばっているため、中途半端な馴れ合いや庇い合いはない。それゆえ、それなりの報酬を示せば、悪党仲間を喜んで売り渡すであろう―――が、彼等の盗まれたものがものだけに、細心の注意が必要なのだ。
天井知らずの価値を持つ宝玉・国王すら欲する力に満ちた対魔王アイテム――――野心のか細い者ですら、なんらか期するところが沸いてくる。ましてや、金の為なら親をも売ると豪語するようなならず者たちの町に、その実物があるのだと知られれば………
「無用の混乱は避けたい」
リファインは鋭い視線をカリに投げかけた。応じるように、カリは薄く笑んだ。
「無用の混乱、ねぇ」
片手はアリーナ君の唇をぷにぷにと押し潰しながら、囁いた。
「忘れたのかもしれないけど、イアン………私は”無用の混乱”というのが、とても好きなんだよ?」
その囁きがアリーナ君の首もとを刺激した瞬間だった!
まるで油でも投げかけたように、眼前のテーブルに備え付けられていた燭台のロウソクが、炎を高々と舞い上らせた。ごうごうと勢いよく舞う様は、天空を舞い飛ぶという竜を想起させる。突然の怪現象に、豪胆で鳴らす者たちも呆然と口を開閉させるばかり。中にはがくがく震えてテーブルの下に逃げ隠れる小心者までいた。酒場中が、その、炎の竜を逆にたどって―――悠然と構えた美貌の男、カリに注視を向けた。
そんな視線を大量に浴びても、カリの余裕の態度はまったく崩れない。むしろ心地良さそうに楽しげにさえ見える。理解できんとばかりに額を押さえたリファインに視線を合わせつつ、アリーナ君の耳元に唇を寄せた。
「ねぇ、アリーナ君。―――最近、だいぶ大人しくしていたからね、世界をおもちゃにしてやるのも一興だ」
それは囁き声であったのに、音響効果が加えられたかのように、酒場中の人々の耳に届いた。ざわめきが各地で起こる。
炎の竜。
今の台詞―――”世界を、おもちゃに”
誰しも、頭の中で嫌な連想を働かせていた。必死に打ち消さんと、随所で猛然と頭を振りまわす者や、顔を青ざめる者が出た。
アリーナ君も驚いたようにカリを見上げようとして―――邪悪に釣りあがったカリの唇を発見していた。実に――実に愉しそうにゆがんだ口端を。
(うわぁあああああ、マジだ。コイツ、本気だっ!)
本気のカリは………本気で遊びに夢中になったカリは、それはそれは厄介なのだ。経験上、アリーナ君はよーっく体に染み込んで知っている。ヤバイ。これは相当ヤバイ。強張ったアリーナ君の耳に、さらに恐ろしい囁きが続いた。
「あれは私の大事なおもちゃのひとつだったのに」
くすり、と笑う波動。
アリーナ君は身じろぎもせずに竦んでいた。その金髪を1束掬うと、カリは軽く唇を寄せた。
「大人しく返すなら、見逃してやってもいいのですが―――」
「…マスター………」
アリーナ君にはなぜだかわかっていた。
カリの本気が、たとえ冗談でも徹底的だってコトぐらい。大事なおもちゃ……聖座の眼を取られたってのはあくまでダシに過ぎない。ってか、自分が盗ませたくせに、だ。でも、そういうのをあくどく最大限に利用するのが、このカリって男で。
(うぇえええ、こいつ等全員ヤバイっての!)
そう心から思ったが、しかし腰にがっしりとカリの腕が回されているアリーナ君に、為すすべなんてない。為すすべがあったとしても、見知らぬヤツのために、己の身に悪虐魔法使いの天災レベルの災厄を呼び込むのも絶対ご免だし………そうこうアリーナ君が頭を悩ませているうちに、カリの次なる台詞が下された。
「返さないなら―――それはそれで面白いですよ。意地っ張りは大好きだ」
酒場中に霜が降りたように、皆の背を凍らせる響き。
「どこまで堪えられるか、試してみたくなる」
それは巷に名を轟かせている邪悪魔法使いそのままの台詞。表情。
酒場にたむろっていた荒くれ者どもは、己に振りかかった災厄の巨大さに慄いた。我先にと酒場から逃げ出すもの、事態の推移を見越そうと留まるもの、単に腰が抜けたもの―――酒場は狂騒に包まれた。その中で、ただカリの周辺だけが静穏に閉ざされているかのようであった。
リファインが苦く告げた。この状況にはっきりと不服を感じている顔で、
「貴様には目立たぬよう大人しくしておくのが、それほど難しいことなのか?」
カリはくつくつ笑って返した。
「そうだね。そんなつまらないやり方、興味がない」
「だが、効果的ではない」
リファインが短く断じる。
確かに大混乱に陥った酒場で、聖座の眼を盗んだ男の情報など得られようはずもない。リファインの苦言はもっともである。だかカリは不敵に笑うばかりだった。「どうかな……」そう呟くと、カリはふいにアリーナ君の顎をとって上向かせた。きっちりと視線を合わせて告げる。
「アリーナ君、正直に答えようね」
(………え!?)
「大きな声ではきはきと」
(はぁ!?)
状況にうまく合わせられず、アリーナ君はびくびくと震えた。まさかココに至って自分にフられるとは思ってもみなかったアリーナ君である。油断はやはり大敵なのだ。
「なななななん、ですか………??
綺麗な漆黒の瞳に吸いこまれそうになりながら、どうにか受け答える。カリはよしよしとその頭を撫でつけた。
そして、さえずるように訊ねた。
「アリーナ君、この世で一番強いのは誰?」
(………………?)
その意図なんて、アリーナ君ごときにはさっぱりわからない。
「…マ、マスター………」
とるもとりあえず、あたり障りなく答えてしまう。カリも怖いけど、何をしてるんだと言わんばかりのリファインもなかなかのプレッシャーなのだ。
間髪いれずに次なる質問が降ってくる。
「この世で一番知恵あるものは?」
「……マスター」
「この世で一番思慮深いのは?」
「マスター………」
尋問を受けてるみたいだ。「では」―――そう切り出したカリに、アリーナ君は身構えた。
「ではこの私が、無駄なことをすると思いますか?」
口調に反して、その漆黒の瞳は愉しげに揺らめいている。アリーナ君はココが正念場とばかりに気合入れて答えた。
「お、思わないです」
間違ってたらどうしよう……そう戦々恐々としたアリーナ君であったが、次の瞬間、ふわりとそのネコ耳を撫でられた。
「ほらね、アリーナ君が一番良くわかっているようだよ、イアン」
「何を………」
リファインの堪忍袋の緒は、もはや振り上げられた斧の真下の切り株、今にもブチンと切れそうだった。こめかみに血管が浮き出ている。後方では、我先と酒場から逃げ出す人々で大騒ぎが起こっていた。こんなところから逃げ出せたところで、邪悪な魔法使いの手から逃れられるはずがないというのに。
(まったく、これほどの騒ぎになったのだ。肝心の盗人も追っ手の存在に気付いたに違いない………)
リファインは苦虫を噛み潰して磨り潰したような表情をカリに向けた。所詮堪えぬであろうが―――そう思ったリファインは、カリの人を食ったような不遜な眼差しとかち合った。
「イアン、わからないの?」
いつものおちょくるような口調。
アリーナ君を降ろすと、すぅっと流れるような仕草で立ち上がった。どこか遠くに耳をすますような、そんな瞼の伏せ方。長い睫毛の影が頬に落ちる。
(………っ!!)
リファインは弾けるように、瞬間的に事態を把握できていた。
だが、それは遅きに失していた。くすりと笑ったカリの輪郭が、けぶるようにたゆたった。
「赫斗だよ。……ネズミの巣穴を見つけた」
告げる声すら、霞の彼方から伝わってくるような違和感をもつ。空間転移の前兆―――
(跳ばれる……!)
慌てたリファインは、咄嗟に席を立った。
しかし、彼がどうにか確認できたのは、消えゆくカリに抱きついたアリーナ君と、こちらに向けて薄く笑いかけたカリの、口先だけで告げられた一言だけで………――――瞬きする間に、その残像はかき消えたのだった。
(03.01.31)
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