世界はキミのもの





【ROUND9】


 言葉なら、もう伝え合った。
 気持ちなら、あのとき少しは通い合った……はずだ、たぶん。
 なのに最後の最後に与えられた台詞だけは、その意味だけは全然わからなくて。
 わからないから―――わからないなら、わかるように努力するまでだ。
(いつまでも言われたまんまでいると思うなよ……!!)
 己を鼓舞するように、秀弥は「よしッ!!」と気勢をあげた。
 顎を逸らして見上げる先は14階。昨日の今日だけれど、その胸に抱く気持ちはだいぶ違う……はずだ。
「待ってろよ!!」
 秀弥はもう一度気合を入れ直すと、力強く一歩を踏み出した。



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 ―――二度とここへ来るな。いいな。

 で。
(はいわかりました〜なんて了承できる訳あるか!)
 それがまず秀弥の結論だった。
 追い立てられるように部屋を追い出されて、その時にはもう気持ちは固まっていた。
 けれど一日だけ待ってみたのは、その場の勢いだって思われたくないから。それに自分自身……真剣に、冷静に悩んでみても―――やっぱり成瀬の言には従えないって確信したかったから、だ。
 だってあの……と、秀弥が思い浮かべたのは、昨日見た傷だらけの成瀬の身体だった。
 特に、左の肩口から上腕部にかけての傷は今だ生々しく傷口から血を流していて―――その傷以外にも、完全に塞がった傷痕なら白い肌に数え切れないほどに走っていた。いくつかは、秀弥の目にも重傷であったであろう事が窺えるほどざっくりと、無残に刻み付けられた痕で……
(生きてた世界が違ってる……)
 小学生の時に彫刻刀で親指の付け根を傷つけたのが、一番血が出て痛かった思い出となっている秀弥にとっては、想像もつかない成瀬の世界。最近は収まってきているって言っていたけれど―――それでも、油断したぐらいで肩口をあんな風に斬り付けられてしまう成瀬の日常。
 正直に言うと、怖い。
 現実的に想像できない分、テレビや映画、聞きかじりで得た恐ろしい情報などで恐ろしさばかりが煽りたてられてる。
 それに、あの最後に成瀬の告げた言葉の直前に掛かってきた電話での、一瞬で鋭く研ぎ澄まされた成瀬の気配―――それこそが全てを物語っていて……きっと、人一人が必死にならないと生きていけない世界なんだろうとか、いかにも安っぽくしかまだ考えられないのだけれど。
 二度と来るなって言うぐらいだ。アイツから言わせれば、素人は映画でも見て満足してろってコトだろう。
(成瀬……)
 でも、これは教えないといけない。
 お前を巻き込む気はないと言った成瀬に、はっきりと示してやらないといけない。
(嫌なら嫌だって……抵抗しないといけないんだろ?)
 それなら……と、秀弥は今朝から何度となく繰り返していたように、ぎゅっと力を込めて頷いた。
(逃げてやる気なんかないぞ、成瀬)
 お前の言葉にだって、従う気は全然ないんだぞ。
(俺だけ蚊帳の外なんかご免だ)

 好きだって―――ようやく気付いたのに。

 ほんの少しだけかもしれないけれど、成瀬と歩み寄れた気がしただけに、その日のうちに「二度と来るな」で、翌日は見事に欠席とくれば―――秀弥だって、何事か大変な出来事が起こったからだとは勘付いている。けれど、たとえそれが成瀬の背景でもあるヤクザ関係のいざこざだったとしても―――それがゆえに成瀬が今まで欠席していたり、身体に傷を負ったりしたのだと知ってしまった今となっては、放って置けるはずなんかないのだ。
 それこそ、どうしてわからないんだと言いたくなるぐらいだ。
(好きなのに、危ないかもしれないってわかってるのに、知らん振りなんかできるわけないだろっ!!)
 もしかしたらそんな考え方は自惚れなのかもしれないけど、成瀬としてはただただ邪魔な秀弥を追い払っただけなのかもしれないけれど―――でも、でも!!
「俺が居たいだけだから……」
 何ができるってわけじゃないけれど……多分、本当に邪魔になるだけかもしれないけど。
 秀弥は歯茎を噛み締めるようにして、顔を引き締めた。
 何にも知らせられないで、ただ邪魔者扱いされるのだけは―――そういうのだけはご免だ。
 お前が教えてくれたんだ。だから抵抗する。嫌だから、ご免だから、俺がそう思うから、だから。
 秀弥はその引き締められた表情のまま、気合充分に漲った拳をエントランスインターホンに叩きつけた。昨日よりもずっと確かな動きで、1401の4桁の数字を立て続けに押す。
(さあ、出て来い成瀬!!)
 どんなに怖い顔をして凄まれたところで、こっちだって結構免疫はついてるんだ! 伊達に時間を過ごしてきたワケじゃないんだぞおおおお―――と、インターホン先の反応を待つ重圧の中、秀弥は己を鼓舞しまくる。
 が、1秒。2秒、3秒……何秒待ちつづけても、その近代的なスピーカーからはうんともすんとも反応は返ってこない。
(……い、いない?)
 気合が空振りして、その分だけ気持ちが浮ついてしまう。秀弥は今更ながら鼓動を早めて、周囲に目をやった。
 部屋に居ないことを想定していなかっただけに―――というよりも、成瀬に会ったらなんて言おう、なんて言ってやろうとばかり考えていたものだから、あわあわと目に見えて焦りはじめる。
 もう一度、わずかな可能性を信じて成瀬の部屋番号を押すが、やはり反応はない。
(ど、どうしよう……)
 ここで諦める気は全くない秀弥である。だけれども、まさかの可能性であるところの成瀬曰く”本宅”へは―――できる限り、最後の最後の最後辺りまで、選択肢として残して置きたいという心情を批判しては可哀相である。もはやあの邸宅はトラウマといっても過言ではないのだ。日本刀に薬のダブルコンボはもう二度と味わいたくない。ではどうする―――と、秀弥は当て所なくその視線をさまよわせた。
 エレベーター前の自動ドアはあいかわらずぴったりと閉まっている。マンションの住人か、住人が認めた訪問客以外にはそのドアが開かれることはないと言わんばかりに、秀弥の行く手を塞いでいる。かといってエントランスで待ち続けていては、上部に設置された監視カメラ先のガードマンから不審者扱いされて追い出されてしまうのが関の山だろう。
(ううっ……こういう場合って、ウマイ具合に住人さんが帰って来たりして―――)
 でもってマンション内に侵入成功!なんてのが、テレビや映画なんかの常道なんだけど……などと、秀弥らしからぬ考えを巡らせた時だった。
 まさしくその設定通りに、ウマイ具合に長身の男性がエントランスに入ってきた。チラリとこちらに視線を送るものの、その男性はそのままエントランスを抜け、胸元から取り出したカードであっさりと認証を済ませると、自動ドアを潜り抜けようと歩みを進める。
 秀弥の躊躇は一瞬で弾け飛んでいた。
 今を逃したら、チャンスはもうない―――ないかもしれない! ううん、絶対ない!!
「ああああああっと、いっ、今から行くから、じゃあねッッ!!!!!!」
 秀弥は応答なしのインターホンに向かって勢いよく叫んでみせると、閉まり始めた自動ドアの隙間を息せき切って駆け抜けた。
(……俺の常識と良識と判断能力がぁあああ〜〜〜!)
 頭の中ではそれまで培われつづけた性格上のタブーがゆえか、その不法侵入まがいの行動にがんがんと警報が鳴りまくっていたけれど―――背後で自動ドアが音なく閉まるのを感じ取った秀弥の表情に、ためらいの色はほとんど消えてなくなっていた。
 ごくりと喉を上下させる。
 ここまで来たんだ。自分の意志で、自分の足で。
(待ってろよ……って、成瀬!!)
 もう一度しっかりと拳を握り締めると、秀弥はエレベーターに向かって力強い足取りで踏み出した。
 エレベーターはその扉を全開させて、秀弥を待ちうけていた。


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「―――で、その情報は確かなんだろうな?」
 そう鋭く問い掛けたのは、その部屋の主である青年―――成瀬恭平であった。
 同じく鋭い視線を向けた先には、こげ茶色の瞳をわずかに伏せつつもその真剣な眼差しは恭平と幾分も変わらぬ人物がいる。その名を、アルフォンソ・レッジェ。昨日、成瀬に電話をかけたのも彼であった。
 顎を軽く引いて、アルフォンソは神妙に頷いてみせた。
「ジーリの上層部から直接ご連絡を頂きました……」
「……っていうとコンラード老周辺から? なら、情報は正真正銘の確実系ってワケだ」
 返答はなかったが、その場を押し包む重苦しい雰囲気はいっそう強まった。
 はぁあああ……と、恭平は胸郭に溜まった息を吐き出す。
「マーダーインクが、ホントに動き始めたってのか―――」
 呟く声は、その場にいた人物全てに重々しく届いた。


 そこは成瀬恭平が個人名義で所有するマンションの内でも、特に知られていない―――つまるところ、彼と彼の腹心である高原怜二だけしか存在の知らぬ場所であった。
 隠れたり密談をするには最適だと、今回その場を提供することになったのだか―――現在、その室内には彼ら両名を含めあと二人、計四人の人物がそれぞれの立場や状況を反映した表情を浮かべて、応接用のソファーに対面で曇った顔を突き合わせていた。
 中でも特に重苦しく表情を陰らせているのは、数年前より派遣された―――以来、影よりずっと成瀬を見守ってきたことを誇りにすら思っているアルフォンソ・レッジェであろう。普段は柔和に形どられている眉を寄せて、言葉を押し出す。
「情報は確実なのですが……ですが、その情報自体が常識を超えているのです」
「あー……っていうと、アレ? マーダーインクが動けたっていうこと?」
「はい。老も早々に確認を取ったそうですが、レオンカヴァロとマリネッティは関与を否定、ファリエーリ、アルベニスがそろって返答をはぐらしたそうです。つまり、正当な手続きを経てはいないということなのです……!!」
 アルフォンソは悔しげに言葉を詰まらせる。しかし、応じる恭平は多少顔を強張らせてはいるものの、ふてぶてしく響く一笑を上げた。
「まぁね。気持ちはわかるけどさー、でも、そこら辺の是非を今更問うたところで、マーダーインクが動いたってことはリセットが利かないワケでしょ? 俺は無意味なことは嫌いだなぁ」
 恭平の言は厳しいけれど、真実を射抜いていた。
 マーダーインク―――殺人会社と名付けられたその組織は、一旦出された指令を引き下げることはない。つまり、動き出したなら、ターゲットを仕留めるか、指令を受けたヒットマン自身が仕損じ命を失うか……その二択以外の結末は用意されていないということになる。マーダーインクが動いたというのは、それがゆえに大きな意味を持つ。そしてその結果、マーダーインクという名を冠されたとも言えるのだろう。
 殺人という仕事を完璧に遂行する会社、その評価は今だかつて覆ったことはない。
 狙われたら、それはそのターゲットの死を意味するといってどこに過言はあるだろうか。だからこそ、それがわかっているからこそ、今は慎重に、冷静になるべきだろう。
 だが、確かに―――と、恭平が考えこんだのは、次の高原の台詞のためであった。
「ですが、若……敵を明らかにするというのは、こちらも対策を立てる上で必要なことか、と」
「うん……まぁ」
 マーダーインクを動かすには、五名中少なくとも三名以上の賛同が必要とされているはずだ。それが今までのルールであった。今回、その前提が満たされていないことはアルフォンソの言からも確かであろう。コンラード老の確認に曖昧な返答しか返さなかった両名―――ファリエーリ、アルベニス。当てはない訳ではない。
 恭平は足を組替えた。軽く体勢を崩し、ソファーに全身を持たれ掛けさせる。胸郭の深いところから、息が零れた。
「―――ファリエーリ……なんだろうね、多分」
「……おそらくは」
 返す高原も、ほんの少しだけウンザリとした表情を垣間見せた。彼ら両名の対面に座るアルフォンソも、その彫りの深い相貌を歪ませる。
「ホンット、あの人もしつこいよねー」
 と、1オクターブ声音を上げて恭平が同意を求めたのは、同じ室内にいながらにして、先ほどから口を全く開くことのない甥―――であり、義理の息子でもある成瀬孝一郎であった。
「……」
 チラリと視線だけ向けるものの、彼の息子は口を開くでもなく、またしても自身の思考の内に入り込んでしまった。浅く両眼を閉じて、ソファーに深々と沈む。イライラとその右手が肘当て相手に拍子を刻んでいることからも、寝ている訳ではないのは解っていたが―――
(めっずらしーねぇ……)
 事態の混迷さ・重大ぶりよりも何よりも、恭平にとっては息子のこの変わり様こそが一番の驚きであった。
 昨夜、そのままあのマンションに留まるのは危険と判断したアルフォンソに連れられて来た時には、それほどおかしいところはなかったのだが……次第に、時間を経るごとに“らしからぬ”態度をとりだして―――
(原因は、あの子……なんだろうな、多分)
 恭平は先日顔合わせをした少年を思い浮かべて、苦笑未満の声を漏らした。
 怯えた―――びくびくと身体を震わせてばかりだった少年。
 けれど、どうしても嫌だと感じであろう瞬間の拒否反応は恭平の想像をはるかに超えていて―――そして、その場に少年が助けを求めつづけた名前の主が現れたのだ。
(真面目におっそろしい顔してたよな〜、コイツ)
 それも自分に向けて。ほとんど唯一の“頼ってもいい”肉親で、同盟関係のような間柄で、ある意味ライバルで、友人で、叔父で、父親である自分に対して。
 ふぅ……と、ため息をこぼす。
 なんだか、本当の父親にでもなった気分だ。
(てか、これじゃ娘を取られる父親って感じだな)
 口元に苦笑が刻まれる。それを片手で巧みに覆い隠して、目元だけはいかめしく尖らせてみせた。
 恭平は横目で高原を見遣ると、再び口を開こうとした―――が、その時である。
「……はついてるのか?」
 その場でようやく響いた第四の声。低い囁きは、三人の男たちを一斉に彼に向かわせた。
 成瀬は面をまっすぐ上げると、その視線をアルフォンソに差し向けた。もう一度、はっきりとした口調で告げてくる。
「そのヒットマンの目星。ついてるのか?」
 先ほどまでとはうって変わった鋭敏な眼差し。色素の薄い虹彩が照明を受けて一瞬光った。
「詳しくは……マーダーインクの性質上、彼らのプロフィール等は秘されておりますので」
 主と仰ぐ少年からの問いかけに、アルフォンソは申し訳なさそうに首を振った。
 マーダーインクの内部情報は、彼を派遣した者ですら知らぬ類のものなのだ。ヒットマン―――つまるところ殺し屋と称される者たちの詳細を握るのは、そのトップであるピアーズ・アディントンという男ただ一人。けれど、アルフォンソ程度では、そのピアーズ・アディントンですら実物を拝んだことはなく、その面相すらもまったくわからない。正式の主である人物が八方手をつくしているのだが……情報の錯綜しているらしき現地では、真相を解明するには今しばらくの猶予が必要であるとのことであった。
「そうか―――」
 アルフォンソが陳謝するよりも先に、成瀬はあっさりとそう吐き出した。

「帰る」

 口に出した時には、すでに立ちあがりきびすを返している。
 慌てたのは、無論、置き去りにされた人物たちであった。
 一瞬の自失から無理矢理立ち直ってみせると、恭平はソファーをひっくり返す勢いで立ちあがった。
「はぁっ!? 帰るって何言ってるんだよ!!」
 慌てふためいたあまり、声が上擦ってしまう。それでも視線だけで高原をして玄関に至る廊下の入り口を塞がせるあたり、やはりその胆力は一般人とはかけ離れている。
 しかし、それでも―――それでも、成瀬の突然の言動には混乱を拭いきれない。
 ほとんど知られていないこのマンションにとりあえず呼びつけた理由も、しばらくはココで過ごすようにと告げた理由も、説明されなくても経験上、充分理解しているはずの成瀬の言動とは思えない。
(……これもあの子が原因っていうのか!?)
 それ以外の見当が全く見つけられない。
 けれど、“あの子”がこの件に関わっている事が有り得ないってことぐらい、先日の対面でもはっきりと証明されている。恭平も今更そんな無茶な―――「小菅秀弥はどこぞの回し者なのでは?」なんてことを考えたりはしない。
 あの子はこういう世界に全く縁のない子なのだ。ぶるぶると震えた様が、あんまり本気すぎて逆に可笑しくなるほどの、それぐらい『普通の感覚』を持った子。
 正体のわからないマーダーインクの殺し屋―――時期的に符合はあっても、それが小菅秀弥であるはずがない。なのに……と、恭平は成瀬に視線を合わせた。
「……っ」
 返って来たのは苛立ちすら紛れた一瞥。恭平は真意を探るように瞳を細めた。けれど、成瀬はそれを振り切るように首を巡らすと、立ちはだかる高原を片手で押し退けた。その手で高原のスーツの胸ポケットを探り、目当ての物を掴み出す。
「借りるから」
 そう呟いて掲げてみせたのは、恭平所有のバイクのキーだった。高原を牽制するように見遣りながら、そのまま成瀬は玄関に続く廊下に消える。
「おいっ、コラ、孝一郎っ……待てって! 話は全然終ってない!!」
 恭平が叫ぶものの、それは完全に遅きに失してしまっていた。彼の語尾に続くように、玄関のドアの閉まる音が室内に響く。
 あとにはしばしの間、静寂だけが満ちていた。



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 秀弥は身長170センチの、どこにでもいる体型の高校生である。
 つまるところ、ごくごく普通の体型の秀弥がこれぐらい首を逸らして見上げないといけないということは……それほどにその男性が長身ということなのだろう。
(…っと、成瀬よりちょっとおっきいぐらい、かな?)
 目見当で定めつつ、秀弥は下から上まで、相手をもう一度見上げた。
 見上げて―――ようやく、先ほどから感じている違和感の原因に気付いた。
 気付いて、仰ぎ見ている秀弥の目がまん丸に見開かれる。
(が、外人さん……)
 日本人が得てして陥ってしまうように、秀弥も突如目の前に展開したインターナショナルな状況にカチカチに固まってしまう。さすがは近代的超高級マンションというべきなのか、とりあえず思ってもいなかった展開である。エレベーターという小さな密室が、国際化社会に繋がってるなんて―――
 対して、黒髪と淡い水色の瞳を持つ長身の男性は、しゃちほこばった秀弥を見下ろして、くすりと笑いをこぼしている。おかしな少年だとでも思っているのだろうが、秀弥にとっては、彼の立っている場所がコントロールパネルの前であることは、進退窮まりまくりの大問題なのであった。
(エクスキューズミー……でいい、んだよな?)
 内心では、「人にものを頼む場合は……キャンユー? クッジュー?」などと、盛大に慌てふためいている。普段、テスト問題として出題されていたら難なく出てくるはずの基本文なのに、いざとなったら頭の中は真っ白になるらしい。
 そうしている間にも、エレベーターはどんどん登っていく。
 ……まぁ、どうせ最上階の14階が目的なのだから、この外人さんが降りてから14階のボタンを押せばいい話なのかもしれないけど……などと、すでに押しの弱さが前面に出てき始めている秀弥である。
「あ……っと、あの、エ、エクスキューズミー……」
 それでもどうにかこうにか言葉を押し出す。
 ただでさえ不法侵入なのに、さらに怪しまれて、最悪通報なんてされてしまったら……やっぱり、すごく、ものすごく困るのだ。レッツ英会話しかない。中学高校と4年と4ヶ月分やってきたことを、今こそ実践するのだ!!
 秀弥は口の中に溜まった唾液をごくりと飲みこむと、喉の奥あたりにくいっと力を込めて、もう一度声を押し出した。
「……クっ、クッジュープッシュザボタン―――」
 秀弥がまさしく清水の舞台から飛び落ちる覚悟で国際化時代への一歩を踏み出した時だった。
「ああ……申し訳ない。何階ですか?」
 やったらめったら流暢な日本語が、頭上から降り落ちてきて―――秀弥は数秒のラグに脳内活動を停止させた。
(…ええっ……と)
 鼓膜に優しいその声音に、ただただぽかんと口をあけてしまう。
 なんていうのか……日本にいる外人さんなんだから、日本語通用しても可笑しくないのは当たり前過ぎるんだけど。
 見上げる先の外人さんの瞳は、澄みきった淡い海の色を彷彿させる。その静かな海の色を前に、ただただぽかんと口を開けている自分は、結構間抜けかもしれない。
(うううううう……なんか、どっとクる―――)
 あまりに空回りした気合が脱力感を与えているのか……ヤツの牙城へはまだまだ全然途中だっていうのに、こんな状態なのだ。我ながら、先が思いやられてしまう―――けど。
 でも。
 秀弥はその失調気分を振り払うように軽く頭を振った。ニコニコと人の良さそうな笑顔で返事を待ちうけている外人さんに、どうにか愛想笑いを浮かべてみせる。口端がピクピク引き攣っているかもしれないのは、この際ご愛嬌ってヤツだ。
「14階を―――お願いします」
 秀弥は幾分かか細い声で、それでも明確な意思を込めてそう告げた。
 淡い瞳の外人さんは、了承したようににっこり笑顔を向ける。
「僕も14階に向かってるんですよ。奇遇ですね」
 外人さん特有なのか、それともこの人だけがやたらと特別なのか、親しみのこもった話し方をする。
 口端だけだったけれども、秀弥もつられるようににこっと笑顔を返した。
(う……つられてどうするよ、俺)
 なんだかほのぼのなってしまってる。
 けれど―――と、秀弥は気持ちを引き締めるように深く息を吸って吐いた。
 ウイィィンン……というごく静かな機械音と、エレベーター特有の重力感覚に、本来の目的を再確認させられる。
 そうだ。
 こんな、ほんわかしている場合じゃないのだ。
 もうすぐそこ。ホント、もうすぐそこまで。
 いるかどうかはわからない。でも、それでも確実に、ずっと近くまで来ているはずなんだ。
(成瀬……)
 唇が、その名を呟くように開閉した。
 目が、エレベーターの階数表示の点滅を追っていく。今、10階……11、12―――刻々と、上昇して行く表示。
 本当に、もうすぐそこまで。
 14階に着いたら、左のドア。
 まず、とりあえずそのドアをノックしてみよう。
 でもって、成瀬って声を掛けてみて……それでもダメなら、ホントいないんなら、それならそれで、帰って来るまで居座ってやる。
 絶対に諦めない。
 関係ないとか、もう、言わせてたまるもんか。
(言わせるかよ……!!)
 心底、気持ちを固めた時だった。
 控えめな音程で、エレベーターが目的地に着いたことを知らせる。ごく自動的に、目の前の扉が左右に割れて、視界を広げた。
 ごくり、と息を呑む。
 一歩目の歩き出しの右足は、思っていたよりもずっとスムーズに14階の床を踏みしめていた。



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 成瀬……好きだって、ちゃんと好きなんだって気付いた。
 
 “関係ない”とか、結構冷たい顔で、実は色々考えてたりしているかもしれないところとか。
 色々考えてくれているかもしれない成瀬が。

 もう、“関係ない”はずなんか―――少なくとも俺の中では、関係なんか大有りなんだ。
 大有りなんだぞ、成瀬!!


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 ふと、秀弥は後方を振り返った。
(あれ……?)
 何の疑問すら抱かなかったけど……そう、このマンションの14階にはたった2部屋しか配置されていないのである。
 だから―――と、秀弥はきょとんと小首を傾げて彼を見つめた。
(俺のすぐ後ろにいるってことは、右の部屋の人じゃない……??)
 成瀬のお隣さん。こんなご大層なマンションだから、住人が外人さんっていうのもしっくりハマってて、疑う余地すらなかったけど。
 彼、こと、長身の外人さんは、微かな含み笑いさえ浮かべてみせて、秀弥をその淡い瞳で見返した。
「おや」
 と、秀弥に合わせて同じ方向へ首を傾げてみせる。
「君もサエルのお客なのかな?」
「え……?」
 先程、エレベーター内でのやり取りよりも、さらに親しげな雰囲気を溢れさせたのは、同じ人物が目的という気安さのためなのだろうか。
(でも、サエルって……ええッ!?)
 ふいに、成瀬の顰められた苦い顔を思い出した。
 聞きなれない名前だけど……なんか、ぽくないっていうか……いやでも、だからあんな嫌そうな顔したってコトなのか……。
 秀弥は半信半疑で訊ねていた。
「あの……サエルって、もしかして、成瀬の……成瀬孝一郎…君の、ことですか?」
 言いながら、成瀬の茶色い目の色なんて思い浮かべてみて―――その形とか、印象は凄く綺麗なお母さん譲りで、でもその深みのある色だけは、優しげな風情のお父さん似なんだよなぁ……だとか、今更考えた。
(なんだよ……そりゃらしくないカンジだけど、別に教えてくれたっていいじゃん……)
 くっそうと、小さく呟いてしまう。なんでだか、うまくはわかんないけど悔しい気持ちになるのは止められない。
 秀弥の心情を知ってか知らずか、その外人さんはくすくす声を漏らして笑った。
「ああ―――そうか。こちらではそう名乗っているんだったね。そう……孝一郎、と」
 忍び笑いのように聞こえるのが、やけに慣れた雰囲気を醸し出していて―――それに何より、“こちら”っていう言い方が、“こちら”ではない“あちら”の―――秀弥の知らない昔の成瀬の事なんだってわかって、いっそう気持ちが熱くさわだつ。
(もっ……もちろん、嫉妬なんかじゃ全然ないけどッ!!)
 そうじゃなくて、これは……そう、当然の欲求ってヤツなのだ。
 知り合って、イロイロ……ホントもう、ひと口ふた口じゃ言い切れないほど色んなコトがあって、だからもっともっと成瀬の事を知りたい、理解して、もっともっとイロイロなモノを共有し合いたいっていう。そういう、絶対に当然求めてもイイたぐいの要望なのだ。ささやかな欲求なのだ。
 秀弥は振り返った体を完全に相手の側に向き直って、いつの間にやら、幾分か距離を詰めた彼の顔をじっと仰ぎ見た。
 淡い色の瞳が、系統は全然違うけれども、成瀬の淡い瞳にダブって見える。もしかしたら、アレックスという名の成瀬のお父さんの縁続きの人なのかなぁ……なんて、漠然と推測してみたりして―――
「ああ、じゃあ君は孝一郎の友人なのかな?」
 格別の笑顔を向けてくる彼に、あやふやな笑顔で返す。
(友人……じゃ、ないよな? でも、クラスメイトとか、ただそれだけの関係ならこんなとこまで来る訳ないし……)
 でも、なんて言えば?
 それも、成瀬のことを、秀弥よりももっとずっと、たくさん知っていそうな人を目の前にして。
 秀弥が次の言葉を出しあぐねている間に、彼はさりげない仕草でその右手を秀弥に差し出した。
 一歩、また距離が詰まる。

「それならきちんと挨拶をしないといけないね。僕は、JJ・リドゲート。孝一郎の知人だよ」

 その笑顔はあまりに自然だったので、秀弥は数瞬の躊躇で慌てたようにその手を握り返していた。
「ええと……俺、っと、僕は成瀬君のクラスメイトで……ゆ、友人の小菅秀弥です。すみません。あの……どうも、よろしくお願いします」
 なんて、意味もなく謝ってしまうのはいつものクセで。
 だから、秀弥はまるで気付かなかった。
 秀弥がペコリとお辞儀をした瞬間に、彼の―――JJの口端がふいと釣り上がったことを。
 その、先ほどまでとはガラリと印象を異ならせた冷たい笑みを。
 客であるかのように装っておきながら、マンションに入るためのカードキーを保持していたという矛盾さえも。
 まるで気付くことなく、JJに気を許したかのように無防備な笑顔さえ見せていたのだった。


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 かなぐり捨てるようにマンション前でバイクを乗り捨て、成瀬は自動ドアを強引に左右に開け広げると、マンション内に走りこんだ。
 予感があった。
 昨日、マーダーインクが動いたという抜き差しならない事態に、反射的に秀弥を追い返した。関係ない秀弥を巻き込む訳にはいかないという判断だった。
 けれど―――と、思う。
 それははたして正しい判断だったのだろうか。
 ふと思い浮かべるのは、「俺なんだけど!!!!!!」と切羽詰ったような大声で聞こえてきた、インターフォン越しの秀弥の絶叫。
 あの、恭平によって攫われた夜の帰り道―――泣くからには、きっとそれほど恐ろしい思いをしたんだろう。それでも、また自分のもとを訪れた秀弥。
 一大決心をした―――心を決めたような顔つきだったと思う。
 そして、その後の部屋を追い返した時に振り返ったその時の、何か重大なことを告げたそうに半端に開いた口―――……
 心がざわめく。
 成瀬は普段よりもやけに遅く感じられるエレベーターに、苛々したように目尻を細めた。
 嫌な、予感だ。
 父親の事を知って、驚きながらも嬉しそうに笑っていた秀弥の顔が脳裏を占める。成瀬ってクウォーターだったのかと、なぜかはわからないけれど顔を赤くさせながら言っていた。
 そして、その顔に陰りのように覆うのは―――マーダーインクの黒い影。
(親父の名前とか……めちゃくちゃ嬉しそうに訊いてきてたな)
 秀弥―――唇だけで呟く。

 親父がガイジンだって知った秀弥。
 マーダーインクの暗殺者。
 追い出した時の秀弥の顔。何か言いたげな表情。

 秀弥の警戒心なんて、日常のレベルに過ぎないのは明らかで―――それは、先日、高原にやすやすと付いていったことからもわかる。
 どうして―――どうして、それが一回限りの事だって言える?
 成瀬は14階に着いたエレベーターをこじ開け、廊下を左に向かった。
(大人しくしててくれ……)
 願望が頭をよぎる。
 ここには来るな。その言葉に、あの時もう少し付け足しておけば良かった。あんな表情をした秀弥なら、言えば解っただろう。事情を察して、とりあえずは連絡を取れないってことを、きちんと理解しただろう。自分がどうしたら良いかぐらい、察しをつけただろう。
 舌打ちしたい衝動が、一瞬駆け上がって消えた。

 恭平が打ち消した想像のようであったらまだ良かった。
 周り中が敵っていう方が、気分的にはずっと楽だった。

 成瀬は、辿りついた自身の部屋のドアの前で立ち尽くした。
 その視界には、ドアのブラウンの配色に溶けて、混じりそうな鞄が一つ、軽くドア側に傾けて、立て掛けられていた。見覚えのあるその鞄、それは甲稜高校の指定鞄ではなかったか……
 そしてその鞄の上方―――ドアノブにストラップで吊るされて揺れていたのは、シルバーの携帯だった。
 タイミングを見計らったようにそれが鳴り出すのを、成瀬はじっと睨みつけた。




別名、「ウサギさん、ピンチ?編」です。
事態は混迷化の一途を……(汗)
謎が謎を呼んで、やたらと見知らぬ単語が飛び交ってますが、
それもこれも次回、ラウンド10・セカキミ最終話で明らかになるか、と。

(03 09.11)

ROUND8(後)<<  NOVEL  >>ROUND10






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